第6回前編では、アスリートを取り巻く社会環境として中央競技団体(NF)を取り上げた。「スポーツしかやってこなかったので…」というのは、アスリートからよく聞くコメントだが、その原因の一端が、各競技がつくり出している特異なコミュニティ、村文化にもあるのではないか?という考察をした。第6回後編では、アスリートのキャリアにおける指導者、コーチの役割を考えていく。
著者プロフィール
- 阿部博一(アベ・ヒロカズ)
現在地:クアラルンプール(マレーシア)
職業:アジアサッカー連盟(AFC)Head of Operations(審判部) -
1985年生まれ、東京都出身。道都大学卒業後、V・ファーレン長崎にサッカー選手として加入し、3シーズンプレー。最終年はプロ契約を結ぶ。2010年のシーズン終了後に戦力外通告を受ける。その後、米カリフォルニア大学サンディエゴ校に進学し、国際関係学修士を取得。2014年に三菱総合研究所へ入社。スポーツ及び教育分野の調査案件に従事。2016年よりFIFA傘下で、アジアの国・地域のサッカーを統括するアジアサッカー連盟(AFC)にて勤務。英検1級、プロジェクトマネジメントの国際資格PMP(プロジェクトマネジメント・プロフェッショナル)を保有。現在、国際コーチ連盟(ICF)の認定コーチ(ACC)プログラムを受講中。趣味は筋トレ。二児の父。
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指導者の影響力
指導者がアスリートのキャリア、人生観に何らかの影響を与える事は避けられない。これはアスリートが指導者と過ごす時間の長さを考えれば当然だろう。以下の図は、第5回中編で紹介したデュアルキャリアを俯瞰するライフスパンモデルだが、10~20代のキャリア観が形成される時期に、アスリートのそばに最も長くいるのは、両親、兄弟、友人ではなく、指導者(コーチ)である。
これまで本連載で考察してきたように、高度化した競技において上を目指すためには、圧倒的なコミットメントが必要だ。これが競技に対して盲目的な状況を生み出し、アスリートに社会性が備わらないというジレンマもある。そんな中、指導者はアスリートと社会を繋ぐ貴重な存在の一人だ。一方で、日本のスポーツ界では、指導者絡みのトラブルが絶えない印象もある。今回は、これらの背景と現状を深掘りする事で、アスリートのキャリアという文脈で考えた時の、指導者の役割に関して何らかの示唆を得たいと思っている。
日本の指導者の現状
少し時期が遡るが、2014年にスポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)報告書が発表されている。この会議は、2013年に明るみになった女子柔道日本団表チームの強化選手に対する暴力問題に端を発している。この報告書では、日本の指導者の現状と課題を以下のように整理している。
この報告書の中で指摘された課題は、その後の各スポーツ計画(第5回中編を参照)に練り込まれ改善が図られてきた。「特にコーチの質の保証」、「コーチの継続的かつ競技横断的な学習」は指導者資格に関わるところだが、日本スポーツ協会が中心となり、中央競技団体や都道府県体育、スポーツ協会等と連携し、2023年現在、公認スポーツ指導者資格として5つの領域にわたり18種の資格を設けている。我々が想像するよりも、指導者資格制度は整備されており、また、多くの競技で導入されている。
また、本報告書の中では、所々でスポーツキャリア、デュアルキャリアなど、競技者のキャリアを鑑みたコーチングの必要性に言及している。裏を返せば、報告書が出た当時(2014年)は、指導者の競技者のキャリアに対する意識、責任感が希薄だったという事だろう。それも2023年現在では、スポーツキャリアサポートコンソーシアム(第5回中編を参照)のアスリートキャリアコーディネーター資格など、補完資格の整備や、指導者資格にカリキュラムにアスリートのキャリアに関する科目が加わるなど、着実に改善が図られている。
では、指導者の領域で何が大きな課題なのか?
日本では、学校と地域、競技レベル別に、スポーツ少年団、スポーツクラブ、部活動、プロクラブ、ナショナルチームなど様々な形態のスポーツクラブが入り混じり、グラスルーツからエリートまでの生態系をつくりだしている。特に、街クラブの指導者は商店街のおっちゃんであり、サラリーマンであり、大学生だったりする。また、部活動の顧問は、その競技を一度もやったことがなく、スポーツの指導経験もない教員だったりもする。職業コーチならば指導者資格を取るインセンティブがあるが、ボランティアベースのコーチにこれを強いるのは無理がある。
この課題を象徴するデータとして、学校運動部活動指導者の実態に関する調査(2021)がある。全国の中学校600校、全日制高等学校400校を無作為抽出して実施された調査だが、ざっくりまとめてしまえば、部活動の指導者の多くは、日本スポーツ協会公認資格は持っていないし、取得しようとも思っていない。
これは部活動の指導者を対象にした調査結果なので、少し大げさな傾向が浮かび上がるが、重要な示唆がある。コーチの質を担保するために指導者資格制度を充実させてきた訳だが、その努力が届かないグループが存在する。意に反して部活動を面倒みている顧問であったり、趣味としてのみスポーツ指導に関わりたい人達にとっては、指導者資格など煩わしいのだ。
特に部活動に関しては、競技経験のない教師が指導せざるを得なかったり、休日も含めた指導が求められたりするなど、教師にとって大きな業務負担になっている。部活動問題に関しては、スポーツ庁が中心となり運動部活動の地域移行に関する検討会議が設置されるなど、近年盛んに議論されている。おそらく次の10年で、部活動の地域移行は急速に進むはずだ。元々日本において学校にインストールされたスポーツが、地域に移行していく大きな転換点に来ている。
スポーツが地域に移行されるとなると、地域スポーツに関わる指導者に対する教育がより重要になってくるが、先に述べたように、全ての指導者が自分自身をブラッシュアップしながらのステップアップを志しているわけではない。少なくともスポーツ指導者のエントリーレベルにおいては、指導者資格をより柔軟に運用して、誰でもゆるくスポーツ指導を学べる状況を創り出す必要性があるだろう。そして、どの指導者に対しても、どの競技レベルでも、スポーツキャリアについての意識づけが行われるべきだ。また、たとえ部活動が地域に移行しても、競技者のスポーツキャリア、人生をしっかり考えるためには、第5回後編で紹介した、サッカーにおけるドイツの事例のように、学校と地域スポーツクラブ、指導者、親などのステークホルダーが密に連携する仕組みが必要になる。
スポーツと暴力
ここまで、スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)報告書でまとめられた内容を取り上げて話を進めてきたが、この会議が招集された理由は、2013年に明るみになった女子柔道日本団表チームの強化選手に対する暴力問題だった。確かに日本のスポーツ界では、暴力が一種の指導方法として認識され、試合や競争で勝ち、個人の人格を向上させるためには不可欠だと受け止められてきた節がある。
国際NGOのHuman Rights Watchは、2020年に日本のスポーツ界における暴力に関する報告書を公表した。「数えきれないほど叩かれて」日本のスポーツにおける子どもの虐待、というかなりショッキングなタイトルだ。この報告書の中では、バットや竹刀で殴る、顔をビンタする、顔を水面に押しつけて溺れかけさせる、性虐待など直接的な暴力の事例や、暴言、過度な水分補給の制限、罰としての坊主頭など、間接的な暴力の事例も取り上げられている。
自分が中学、高校生ぐらいの時、1990年代後半~2000年代前半には、直接的な暴力はさすがに許されないという風潮はあったと思うが、試合に負けたり、怠慢なプレーに課せられる罰走ぐらいは当たり前に受け入れられていたと思う。いずれにせよ、児童虐待は法律で禁止されているにも関わらず、暴力が一種の指導方法として日本のスポーツ界に根付いているのは、完全な異常事態だ。
この問題自体を取り上げるのは本連載の主旨ではないので、競技者のキャリアという視点から、スポーツにおける暴力指導が何故いけないのか考察してみる。
これまで何度も引き合いに出したが、「自分はスポーツしかやってこなかったので…」と口にするアスリートが数多くいる。この後に続く文章は、「社会の事はわかりません。」という内容だと推察される。これは、自分の育ってきたスポーツというコミュニティが、一般的な社会と異なると自覚しているからだと考えられる。その要因は色々あるが、日常的にスポーツを通じて暴力と隣り合わせにいるなら、これは一般的な社会とかなりかけ離れている。
勿論、今日でも社会において暴力は散見されるが、基本的には暴力による意思決定から決別し、議論を戦わせ意思決定を行うのが現代社会のコンセンサスだろう。暴力を戦わせる→議論を戦わせる、という進化を社会は遂げた。スポーツ分野でも、近代になるにつれて競技規則が整備され、暴力要素が極力排除され、より安全に競技力を戦わせる環境整備が進んだ。今のフットボールやラグビーの起源が、殴る蹴るで死者が続出していたモブフットボールだったのを考えるとわかりやすい。
そんな中、もし日本スポーツ界で暴力による指導、支配が続くのならば、そのコミュニティで育った競技者が自分の社会性に疑問を持つのは当然だ。冒頭で述べたが、指導者は競技者にとって数少ない社会との接点であり、指導者の挙動は、「生きていくとはこういうものなのか。これが社会では当たり前なんだ。」と競技者に受け入れられがちだ。指導者はその自覚を持つ必要があるし、日本におけるスポーツ文化水準を上げるためにも、スポーツにおいて暴力が許容される余地はないと再確認したい。
指導者=コーチ?
最後に、指導者という呼び方に関して触れて第6回後編を終えたい。ここまで敢えて指導者とコーチを同義語として扱ってきた。一方で、「指導者とコーチは違う、もっとコーチング出来る指導者を増やすべきだ。」という一見言葉遊びにも思える議論があったりする。体育かスポーツか?と似たような議論だ。
指導者は「指し導く者」であり、より一方的なコミュニケーション、権威的な含意があり、コーチは語源的に「馬車」であり、A地点からB地点まで人を連れていくための手段、そこから転じて競技者の自律的な成長を促すという含意がある。そう言われると「コーチの方が良さそうだ、もっとコーチを増やすべきだ。」、「指導者ではなくコーチを目指すべきであり、指導者の事はコーチと呼ぶべきだ。」という方向に流れてしまいそうだが、これは本質的ではないだろう。
日本でコーチにという単語が入って来たのは、明治期にスポーツが学校にインストールされていった時期だと推測される(第5回中編)。日本におけるスポーツ、指導者の普及は、学校体育と部活動が大きな役割を果たした。日清戦争、日露戦争、太平洋戦争期には、学校体育、部活動が軍事訓練として位置づけられ、人々のスポーツ、指導者の概念形成にも大きな影響を与えたと考えられる。そうして指導者という単語に染みついた概念は、日本独自のものである。
少し余談だが、例えば、日本では蛾と蝶を区別するが、フランスでは両方ともパピヨンと括られる。対象物とそれに与えられる言葉は絶対的ではなく、そこに必然性はない。これを専門用語では言語の恣意性という。指導者とコーチも似たようなもので、それぞれ異なる概念区分を持っているだけで、そこに優越はない。それよりも重要なのは、あるべき指導者・コーチ像に関する議論だ。
先に紹介した、スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)報告書の中では、「哲学や倫理、内発的動機づけ、言語的・非言語的なコミュニケーション能力、リスクマネジメント、競技者の長期的なスポーツキャリアを視野に入れたコーチング…」など、一見、指導者・コーチにそこまで関係がなさそうなスキルに関しても、指導者・コーチに必要な知識・技能として言及している。
従来の指導者・コーチの中には、過去の経験や権威、時には暴力を用いて競技者と接していた者もいただろう。あるいはそれが普通の指導者・コーチ像として日本では受け入れられていたかもしれない。しかし、これからの潮流、または潮流になって欲しい願う方向性は、プレーヤーズセンタードなコーチングだ。暴力やハラスメントなど反倫理的行為を排除し、常に自らも学び続けながら、人間としてのお手本を見せながらプレーヤーの成長をサポートする。そんな理想のコーチ像があり、そういうコーチが増えればアスリートのスポーツキャリアは確実に改善、向上していく。そして、結果的に日本のスポーツの価値が高まる。
ここまで述べた上で、強いて指導者・コーチのどちらかのタイトルを選択する必要があるならば、コーチを選択すべきだと個人的には考える。その理由は、コーチが英語であり、国際的に広く認知されており、その概念も徐々にコンセンサスが形成されつつあるからだ。グローバルレベルで活躍するコーチの輩出を目指すならば、コーチというグローバルスタンダードなタイトルに寄せるのが良策だと思う。
第6回後編のまとめ
第6回ではスポーツを取り巻く身近な外部要因として、中央競技団代とコーチについて触れた。アスリートのスポーツキャリアを考える上で、アスリート自身が立ち上がるのは絶対的な条件だ。一方で、彼らの周りを取り巻く環境が共鳴しない限り、スポーツキャリアを真の意味で昇華させるのは難しい。次回、第7回では、更に広い外部環境である日本の雇用システムについて考えたい。アスリートのキャリアという文脈で、日本の雇用システムがどのように機能しているか?これを考察したい。今のところ、第7回をもって本連載を完結する予定でいる。
第6回後編の参考記事・データ
- スポーツ指導者の資質能力向上のための有識者会議(タスクフォース)報告書(2014年)
- 学校運動部活動指導者の実態に関する調査(2021年)
- 運動部活動の地域移行について、スポーツ庁(2022年)
- 「数えきれないほど叩かれて」Human Rights Watch(2020年)
- スポーツ社会学者としてのノルベルト・エリアス、大平章
- 講義科目「コーチング論」の最適化 : スポーツコーチングの実践に資するために、富居 富(2014年)
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【サッカー選手のキャリアを通じて考えるアスリートのセカンドキャリアの核心】第6回:指導か体罰か?プレーヤーセンタードとは何ぞや?コーチ>指導者?アスリートのキャリアと競技団体、部活動、指導者の影響力(後編)、いかがでしたか?
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