学生生活のほとんどをサッカーと共に過ごし、幼少から大学サッカーまでプロを目指していた筆者がプロを諦めた後、セカンドキャリアとして、サッカー業界でグローバルに活躍する人材となるべく海外スポーツ大学院留学・就職を目指す挑戦をまとめた物語である。

私と同じような境遇にある人たちに何か新しい可能性を示すことができたらと思い、この企画を始めることにした。海外でスポーツに携わりたいけど具体的にどうすれば良いかわからないという人たちにとって、私の海外スポーツ大学院への留学・海外就職への挑戦記録が少しでも参考になれば幸いである。

記念すべき第1回では、私がどのような経緯でプレイヤーの立場からスポーツ業界、プロサッカークラブで働くことを志すようになったのかをシェアしていきたい。このシリーズを進めていくにあたり、まずは私のこれまでの人生のストーリーを簡単に知ってもらいたい。私のストーリーを読んで、同じような境遇にある人たちに何か少しでも届くものがあればいいなと思っている。

著者プロフィール

井村瞭介(イムラ・リョウスケ)
現在地:ロンドン(イギリス)
職業:学生(ラフバラ大学のMSc Sport Business and Leadership(修士))
登場人物B

1998年生まれ、茨城県出身。幼稚園から大学まで選手としてサッカーをプレー。中・高校時代には鹿島アントラーズの下部組織に在籍。プロの道を諦めたのち、海外プロサッカークラブのフロントで働くことを新たな目標にイギリス・ラフバラ大学院に進学。スポーツビジネスを専門に勉強している。SPORT GLOBALインターン2期生。尚、井村瞭介のストーリーは「聴くスポーツグローバルシーズン3(#42「聴くスポーツグローバル」シーズン3: イギリス・ラフバラ大学留学を実現したイムの物語 – 井村瞭介(イムラ・リョウスケ)SPORT GLOBALインターン2期生 – SPORT GLOBAL PODCAST | Spotify でポッドキャスト)」でも聴けますので、是非お聴きください!

サッカーをプレーして味わった喜びと挫折

幼稚園の年中にサッカーと出会い、その世界に魅了されることとなる。地元の少年団に所属し、チームのみんなとサッカーをすることが毎日の楽しみだった。勝敗を気にせず、純粋にサッカーを楽しんでいた私はその後、全く異なるサッカーの世界に飛び込むこととなる。

中学、高校では運よくJリーグ鹿島アントラーズの下部組織に在籍することができ、プロサッカー選手という明確な夢を目指して高い競争の中で何とか食らいつきながら練習に励んだ。ユースでは1つ上の代が全国制覇を成し遂げ、またその多くがレギュラーとして出場していたこともあり、私は最終学年にチャンスをもらい、レギュラーとして1年間、日本最高峰のリーグである高円宮杯プレミアリーグを経験することができた。この1年を通して、私は大きく成長することができたのだが、試合に出て手応えを感じ始めた頃にはもう最後の年が終わろうとしていた。海外遠征でたまたまスペイン3部リーグのクラブのオーナーが試合を観てくれていたようで、そのクラブから幸運なことにオファーをもらったのだが、自己推薦でサッカーの強豪大学に合格できると思っていた私はこの誘いを断るという決断を下す。これは自分が勝手に理由づけしただけで本当はこの時、異国の地で1人プロという厳しい世界で戦い抜くための覚悟がはじめから足りなかったのかもしれない。

プロの誘いを断ってまで、大学からプロを目指すことに決めた私だったが、現実はそう上手くはいかなかった。

サッカー強豪大学に推薦入試で入るには、ほとんどのサッカー強豪大学の場合、大学側から前もって欲しい選手に声がかかる。トップチームに上がれない選手でもだいたい高校3年の夏から遅くとも秋頃には進学する大学が決まる。大学から声がかかるには、1、2年生の間から試合に出て活躍し、注目される必要がある。3年生になってやっと試合に出始め、数ゴールを決め、少し注目されるぐらいまではいったものの、それでは遅すぎた。受験シーズンになっても私のような選手には魅力的だと感じるような強豪大学から声がかかることはなかった。

それでも自分ならなんとかできると過信していた私は、サッカーでも学業でも有名な大学をと、筑波大学と慶應義塾大学を自己推薦で受験することにした。結果は、どちらも不合格。筑波大学の推薦入試を受けにいった時、試験会場でもう大学から内定をもらっていると誇らしく周りに話す選手がいて、実際にその選手たちだけが試験に合格していた。受ける前から試験の合否は決まっているいわば「出来レース」で、いくら爪痕を残そうと小論文や面接試験の対策を頑張ろうが、結果は同じだったのである。その仕組みをよく理解していなかった私は、大学推薦入学のために、小さい頃からの夢だったプロサッカー選手へのオファーも断ったにもかかわらず、結局、目標としていた大学にすら合格できなかった。その後、詰め込みで勉強を始め、現役で一般入試に挑戦したが、高校3年間サッカーだけをしていた私が当然受かるはずもなく、最後に私に残されたのは浪人という選択肢だけであった。

高校卒業後に1年間の浪人生活を経て、立命館大学産業社会学部に入学することとなる。

最初は関東の学業でもサッカーでも有名な大学(早慶・MARCH)を目指し、毎日予備校に通い勉強した。週に1回ボールを蹴り、後は毎日の予備校の帰り道にダッシュで帰宅して、何とか最低限体を動かすようにしていた。しかし、高校時代と同じで自分のことを客観的に、そして正直に分析することができなかった私は、計20回以上の受験も虚しく、届いたのはたくさんの不合格通知だった。

2年目の浪人も覚悟し、最後の悪あがきとして後期試験で受けた立命館大学産業社会学部スポーツ産業社会専攻になんとか合格することができた。(2年生開始時に法学部に転籍→卒業)

立命館大学は当初志望していた大学ではなかったが、それでも自分はもう一度高いレベルでプロを目指せる環境でサッカーができることが何よりうれしかったのを覚えている。

さらに、この進路が結果的に海外留学という新しい道を志すきっかけを私に与えてくれることとなる。

自分を客観視することで見えた新しい目標

入学後は体育会サッカー部に2年間在籍することとなる。150人近くが所属し、5つのカテゴリーに分けられるという激しい競争の中で、日々の練習に励んだ。結果的には、サッカー部で過ごした2年間、私は一度もAチームに上がることはできなかった。それでも、高校卒業時に自分の中で抱えていたプロへの可能性を自分自身で最後に確認することができたことで、海外留学という次の目標に向かって切り替えることができたと思う。

サッカー以外に何かプラスアルファで武器になるものを身に付ける必要があると感じていた私は、漠然ではあるが「大学在学中に海外留学をする!」という目標を掲げ、英語の勉強だけは欠かさなかった。授業中に、内容が退屈だと感じたときは、こっそり英単語や英語のテキストを開いて内職もしていた。

元々小さい頃から英語は好きで、将来は英語で外国人と交渉する人になりたいと小学校の頃に宿題で書いていたぐらいだ。大学受験で英語が1番伸びたことで、本当に勉強していて楽しいと思えたし、英語を自分の武器にしたいと思うようになった。

幸運なことに、私が通った立命館大学はグローバルな学びに重点を置いており、海外留学の選択肢も非常に豊富であった。何より、英語を通して素晴らしい教授や同士と出会えたことは私にとってかけがいのないものであった。また、教授の後押しもあって、留学について真剣に考えるようになる。

学内留学プログラムに応募するためにはTOEFLやIELTSのスコアが必要だと知った後は、試験対策の勉強に切り替え、サッカーと試験勉強の2つに集中して毎日を過ごした。

そんな中、初めて受けたTOEFLの試験。どうしても1年生の間に留学出願の資格が欲しかった私は、1-2か月の間に3回(試験料:約7万5000円)受験という超過密スケジュールを立て、対策を独学で進めた。この時、自分の中で「数打ちゃ1回ぐらい当たる。なんとかなるだろう」という甘い気持ちがあった。しかし、そんなに現実は甘くなかった。結果は最低必要スコアの60点にはいずれもわずかに及ばず、自信と高額の試験料を失い、悔しさと喪失感だけが残った。

この結果を伝えた時、母に「こんなに受けてダメならもうあきらめた方がいいんじゃない」といわれたことを今でも覚えている。悔しくて情けなくて、それでもあきらめられなかった私は、アプローチの仕方を変えてもう一度挑戦することにした。コンピューターベースの試験方式であるTOEFLから、大学受験に近いペーパーベースの試験方式であるIELTSに切り替え、対策を1からやり直した。

初めて受けた試験では最低ラインのOverall5.5には届かなかったものの、その後何度かの挑戦を経て、最終的に6.0までスコアを上げることができた。ここでやっと海外留学のスタートラインに立ち、目標が少しずつ現実に近づいていることを実感した。

こうして2年をかけやっとの思いでオランダ・ラドバウド大学(経営学部)への交換留学の切符を掴む。今までサッカー以外に一つの目標に対して努力を続け、その目標を自分の力で達成したという経験がなかったこともあり、大きな達成感があった。サッカーでは、準備や努力が必ずしも結果につながるとは限らないが、学業(英語)においては、地道に努力を重ねた分だけしっかりと結果として表れてくる。サッカーでその葛藤を感じていたからこそ、その楽しさや喜びはひとしおであった。

立ちはだかる困難を乗り越えた先に

しかし、またしても私の前に大きな障害が立ちふさがることとなる。2020年から新型コロナウイルスの感染が拡大して、同年夏から予定されていた交換留学が1年延期された。それでもせっかく自分の手でつかんだ海外留学のチャンス。4年生になってからでも、1年・2年ぐらい留年・休学してでも絶対に行くんだ!という覚悟があった私は、その後の1年間、留学のために、英語や心の準備をもう一度整えてその時を待った。しかし、状況は好転することはなく、さらに1年後、私は大学から交換留学中止を知らせるメールを受け取ることとなる。しかも、前年度のように延期ではなく“中止”という決定であった。さらに不幸は重なり、この知らせに精神的に参ってしまった私は、ストレスや生活の乱れから潰瘍性大腸炎という難病を患ってしまう(現在は順調に回復)。希望に満ち溢れていた毎日から一転、絶望のどん底に突き落とされることとなる。

交換留学が中止になったのは非常に残念ではあったが、当時を振り返って1つよかったと思うのは、自分の今後のキャリアについて客観的に分析することができたことだ。なぜ留学したいのか、留学先で何を学び得ることができるのか、そもそも自分は将来何になりたいのかを自分自身に問い整理した。

そこで出てきた答えが、将来はプロサッカークラブ、しかも海外のクラブで、今度は選手としてではなく、フロントで働くことだった。自分が勉強してきた語学力や大学で学んだビジネス法、留学先で学ぶスポーツビジネスの知識、そしてこれまでのプレイヤーとしての経験や視点を遺憾なく発揮することができる。自分にしかできないことがこの仕事でならできるかもしれない、そう感じた。そこで、海外留学でスポーツビジネス・マネジメントについてもっと勉強してみたいという思いに至った。

とにかく漠然と留学しなければという思いが先行していた私は、すぐに自費で行ける留学を検討し、いくつかの留学エージェントに問い合わせた。実際、欧米で受け入れている大学はいくつかあったが、費用はかかるし、何より私が勉強したかったスポーツビジネス・マネジメントについて専門的に学べる大学やコースはなかった。

4年生で卒業や就職のタイミングを考えると休学してプランが曖昧なまま海外留学するよりも何かもっといい選択肢がきっとあると思い、最終的に、まず日本の大学を卒業してその後に海外スポーツ大学院に進学するという新しい目標を設定することとなる。語学力の面だけでなく、修士号も取得することができるし、将来海外のスポーツ業界で活躍するチャンスが広がるということが大きな決め手であった。

(この時、私は初めてSPORT GLOBALのサイトに出会い、海外スポーツ大学院に関する情報を得ていた。その後縁あってインターン生として活動をサポートすることとなる。大学院出願時にはいろいろとアドバイスや協力までしていただいた。これも本当に運命的な出会いである。)

こうして紆余曲折を経て、最後の最後に本当に納得して進める道に出会うことができた。

過去の自分と訣別して前に進む

今思えば、高校の時にプロのオファーを断ったことが大きな後悔として今も私の中でずっと深く残り続けているからこそ、もう一度プロとしてではなく、別の道ではあるけれど海外の地で限界まで挑戦して夢を自分の手で掴み取りたいという思いが強いのだと思う。サッカーだけやってきて推薦で苦労せずに大学に合格したヤツらに負けたくない。同年代でプロになって活躍しているヤツらに負けたくない。自分が本当にやりたいこと、自分にしかできないことをやって最後に笑うのは俺なんだ!という気持ちが私の心の中で燃え続けているのである。

少し長くなってしまったが、以上が選手としてサッカーに打ち込んでいた私が、セカンドキャリアとして海外スポーツ大学院への進学を決意するまでの経緯である。

次回は海外スポーツ大学院の合格を勝ち取るために具体的にどのようなプロセスで準備を進めたのかを紹介したい。

お楽しみに!

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