プロフィール

・1971年生まれ、愛知県名古屋市出身
・現在地:ジャカルタ(インドネシア)
・海外勤務: 日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)
・海外在住歴:8年(インドネシアとマレーシア)

主な経歴

元日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)、柏レイソル。
2018 年~2020 年 マレーシアフットボールリーグ(MFL)・プランニング&ストラテジーグループにてヴィジョン&ブループリント作成のプロジェクトリーダーおよびコンサルタント。

学生時代

お茶の水女子大学で、人文科学舞踊教育学修士号取得。スポーツ界に就職するきっかけが訪れたのは1993年、大学3年の終わる春。先にJリーグに就職していた高校(愛知県立千種高校)の女子ハンドボール部の先輩から、アルバイトをしないかと連絡をもらった。まもなく日本にプロサッカーリーグが誕生するというタイミング。大学院に進むことを決めていた私は、面白そう!と、そこから院卒業までの3年間、Jリーグでアルバイトをした。
Jリーグ事務局は1993年当時、設立準備室を経て神田の雑居ビルの1フロアに、職員30人ほどのオフィスを構えていた。 そこで、運営部を中心に各部署のありとあらゆる仕事を手伝った。当時はまだ多くの業務が アナログの世界。審判員の日程調整(郵便でやりとり)や選手のメディカルチェックの集計。Jリーグアウォーズなどのイベントにも参加した。各クラブやメディア、一般市民からの問い合わせも多く、必死に規約やルールに目を通し、最新情報を頭に叩き込んだ。気づけば大学にいるよりも Jリーグにいる時間のほうが長いという生活になっていた。何より、Jリーグ創設に関わった多くの方が、普段から席の隣で熱く議論を交わすような環境で、スポーツってすごい、サッカーってすごい、と未知の世界にどんどん引き込まれていった。Jリーグバブル、と言われた創設期だった。

スポーツ界への就職(日本) :Jリーグ

大学院時代を含み3年間の Jリーグでのアルバイトを経て、心はすでに固まっていた。ありがたいことに、Jリーグからも就職についての声をかけていただいた。初代・川淵三郎チェアマンと最終面接をした際に、「日本にプロサッカーの歴史が作られる。その歴史の一瞬一瞬に一緒に立ち会っていきたい」と話し、「初心を忘れないでほしい」と言われたことを覚えている。この思いは今でも変わらない。
Jリーグでは事業部、運営部、広報部などの業務を担当した。事業部では、スポンサー契約、放送権契約、 マーチャンダイジングに加え、イベント事業などにも関わった。運営部では選手登録やメディカル関連、規約規定集の改定、アカデミー事業など。広報では報道・取材対応に加え、役員の発信や、危機管理なども 担当した。全国に広がる Jクラブにも足を運び、クラブや地元の方々の話を聞くのも大切な時間だった。4 年に一度のワールドカップ、南米や欧州のアカデミーを学ぶ海外研修などにも参加した。
2002 年からは柏レイソルに出向し広報を担当した。クラブ、選手、地域の人々と毎週末、喜怒哀楽を分かち合い、選手ファースト、地域密着、アカデミーや安定したクラブ経営についてその重要性を叩き込まれた。スポーツビジネスの世界には、協会やリーグ、クラブなど、メインのスポーツ団体の外に、様々な分野のプロフェッショナルの仕事が存在する。メディア、広告 PR、スポーツ用品、医学や法務やセキュリティの専門家、全国各クラブを支える各地の行政(スポーツ振興課など)など。スポンサーパートナー各社とも向き合った。スポーツを周辺から支える様々な業種の方たちと一緒に仕事をする中で、多くを学び視野が広がった。 海外スポーツを含むグローバル企業も多いので、海外で仕事をしたいと思うなら幅広い業種に目を向けてみると可能性が広がると思う。

Jリーグ百年構想PR (2009年当時。後に海外での仕事のきっかけになる)
海外就職:マレーシアサッカーリーグ(MFL)

2015 年。家族の転勤に帯同する形で、Jリーグを退職しマレーシアに移った。長年勤めた Jリーグを離れる ことには葛藤があったが、海外で挑戦できるチャンスにかけてみることにした。 最初は、英語を勉強しながら、AFC やマレーシアサッカーリーグ(MFL)を訪ねたりした。 マレーシアでの生活にも慣れてきたある日、MFL のプランニング&ストラテジーグループの責任者から連絡 をもらった。MFL で、「Jリーグ百年構想」をモデルとした、中長期ビジョン策定を検討しているという。以前に 訪問した際、私が百年構想の PR を担当していたと話したのを覚えていた担当者が、私をビジョン策定のプ ロジェクトリーダーとして推薦してくれたという。すぐに話がまとまり、グループのメンバーとともにプロジェクトがスタートした。パートナーリーグの Jリーグも惜しみない協力を約束してくれて、さっそくメンバーの一人を勉強のためにと日本に招待してくれた。
課題は山積みだったが、マレーシアの高いサッカー熱に可能性を感じた。まずは社内各部署に、現状や課題について話を聞いた。さらに、サッカー協会や代表監督、MFL各クラブの経営者や監督・選手、マスコミ関係者などにも幅広くインタビューし、各分野からの知見とアイデアを集めた。Jクラブのかつての仲間にもケーススタディの共有など協力を仰いだ。Jリーグからは膨大な量の情報共有とアドバイスをいただいた。同じくMFLがパートナーシップを提携するスペインのラ・リーガ、世界各国のスポーツ団体が掲げるビジョンについても研究した。それらをもとに素案を作成し、協会や各クラブとの議論の場を設け、計画を練り上げていった。
文化も慣習も異なり、またサッカー界の構造も異なる国で成長戦略を練るのは、勿論困難も伴った。日本や欧州の事例を真似しようとしても、例えばアカデミーの設立は育成各年代の所轄省庁が異なり、MFLだけで進められる話ではなかった。夜の9時に始まるキックオフをファン増加のために7時に早めようとしても、イスラム国家ではお祈りの時間にかぶってしまうということを知った。しかし、マレーシアサッカーを深く知り、その将来像について議論する過程はどれも重要だった。
ビジョンを文字に落としこみ形にするのは、ローカルスタッフが主体で行った。海外の大学を出た優秀な人材が揃っていて、チームに恵まれた。2019年7月。MFL50 年ビジョン「Next50」を発表した。
今後、マレーシアサッカーが世界に追いつくのは易しい道のりではないだろうが、Jリーグに加えて、もうひとつ、歴史が作られていく瞬間に立ち会い、見届けたい国ができた。
その他、MFL では Jリーグや Jクラブと、マレーシア側との橋渡し的な役割もあった。アジアにビジネスの場を広げたいと考えている Jクラブ、また、セカンドキャリアを見据える現役・引退後の Jリーグ選手がマレーシアを訪問する機会が増えてきて、現地ヒアリングや MFL クラブへの紹介をサポートしている。海外で生活・仕事をするにあたっては、この国に住ませてもらっている身として、マレーシアとマレーシアの 人々を尊敬し尊重することを常に忘れないように意識してきた。語学力(英語)に関しては、大変苦労をした し、これはもう周りのサポートとガッツで乗り切ったというしかない。まだまだ勉強が必要だと感じているし、 海外就職を目指すなら日本にいる間にできる限り習得することをおすすめしたい。

仕事外で得られたもの

マレーシアは、多人種国家で、イスラム系、中華系、インド系の人々が一緒に暮らす。MFL にも様々なルーツを持ったマレーシア人に加え、他国籍のスタッフが在籍する。季節の行事の折には、スタッフ全員で祝う機会もあった。また、チームビルディングの社外での活動にも参加させてもらった。日本にいたら出会うことがなかったであろう友人ができ、好奇心が尽きることなくその国を深く知り、好きになり、彼らの生活や人生観について話を聞くことができた。何より外から日本、日本のスポーツ、そして日本人である自分自身を再認識することができたことは大きい。
スポーツという世界共通言語の持つ力の大きさを実感している。

好きな言葉

If you can dream it, you can do it.

~ウォルト・ディズニー~

努力と継続


~ベタですが、近道はない~

ケ・セラ・セラ/ケンチャナヨ


~なんとかなる!心配しすぎない~