プロフィール

・1988年生まれ
・現在地:クアラルンプール(マレーシア)
・現職:アジアサッカー連盟
・海外在住歴:アメリカ、フランス、マレーシア

転校続きの幼少時代

2017年6月に電子部品の専門商社を退職、同年10月に日本サッカー協会に転職し、それから2年も経たない2019年9月からAFCでの勤務を始めるという、自分でも予想できなかったフットボールアドミニストレーターとしてのキャリアをスタート。

三原陽介。1988年生まれの33歳。父親の仕事の関係により、幼少期の5年間をアメリカのメイン州で過ごした。小学校2年生の時に日本に帰国をすることになったのだが、当時の学校の先生による帰国子女への理解のなさや、日本の小学校文化への適用に苦労し、すぐに馴染めずにいた。

中学2年生時にはまた親の仕事の都合で、今度はフランスのサンテチエンヌに行くことになる。日韓ワールドカップが開催される2002年2月のことだ。サンテチエンヌは人口約30万人の小さな地方都市で日本人はおろか、アジア人も少ない地域だったこともあり、通うことになった中学校は地元のフランス人しかおらず、ここでも溶け込むには容易なことではなかった。

アメリカから日本へ、そして日本からフランスへ。環境が変わる度に子供ながら苦労し、辛く苦しい思いをすることもあったが、思い返せばサッカーがいつも「繋がる」きっかけをくれていた。日本の小学校に転校した際も、スポーツ少年団に入ってサッカーを始めてから、地元の子に仲間として迎えられた思い出がある。

サッカーを通して溶け込むことができたフランス生活

フランスへ行った際も、フランス語をうまく喋れない日本人の私が、アジア人の少ない環境で疎外感と孤独を強く感じていたところ、地元の同級生と仲良くなるきっかけをくれたのも、やはりサッカーだった。フランスでサッカーは国民的スポーツであるが、特にサンテチエンヌ(A.S.S.E)はリーグアンで最多の優勝10回を誇り、一時代を築いたチームでもあった為、とてつもない人気があった。

サンテチエンヌがいかにフットボールの伝説と情熱に満ちた街かはこちらのサッカーダイジェストさんの記事を是非ご覧いただきたい。

私もサッカー好きである知るとすぐにA.S.S.Eの試合観戦に誘われ、一緒に観ることになった。観戦した試合でA.S.S.Eがゴールを決めると、その興奮と喜びを友達と共有できた嬉しさで、気が付くとゴール裏の金網に一緒に登って叫んでいた。その日を境に更に友達の輪が広がっていき、休日には一緒にサッカーをしたり、観たりして楽しむようになり、徐々にコミュニケーションも取れるようになった。

1998年フランスワールドカップでの日本人サポーターの振る舞い(試合後のゴミ拾い)や、2002年に日韓ワールドカップを共催したこと、2003年のコンフェデレーションズカップで日本代表がフランス代表とサンテチエンヌのスタジアムで大接戦を繰り広げたことも、フランス人が日本人に興味をもってくれた要因でもあった。サッカーのおかげで私は、言葉の壁を超えてフランス社会に溶け込むことができたのだ。

そして日本代表の国際舞台での活躍を生で観たことにより、多くの感動と勇気をもらえ、自分が日本人であることを強く誇りに思えたのを今でもよく覚えている。多感な時期にいきなりフランス社会に飛び込むことになり、フランス語がぎこちない中で学生生活に勤しんでいた自分を強く支えてくれ、日本人としてのアイデンティティを肯定できるようになったのはその時からなのかもしれない。 

日本への本帰国、電子部品の専門商社への就職

8年に及ぶフランス生活を終え、日本に帰国後、2年間の専門学校生活を経て就職活動に臨んだ。子供のころから日本と海外を行き来していた私は、日本と海外の繋がりを強く意識していたこともあり、就職活動の軸は自然と「日本と世界の架け橋となる」仕事を探すことになった。

都内の宇宙・防衛向けの電子部品の専門商社に就職が決まると、人工衛星やロケット製造のプロジェクトの一端を担い、アメリカやヨーロッパの部品メーカーと交渉し、国内の大手電機メーカーへ紹介、販売、フォローという業務をしていた。

世界の部品メーカーと国内の電機メーカーの仲介役を担い、末端であったとしても国家的プロジェクトに少なからず携われていたこともあった為、非常にやりがいがあった。

しかし、次第にもっと大きな国際的規模でもっと身近に日本と海外を繋ぎ、多くの人に影響を与えるような仕事をやりたいと思い始める自分がいた。

サッカー界への転職

スポーツ業界にはもともと興味もあった。サッカー、陸上、空手、水泳、バレーボール、卓球などスポーツ尽くしの学生時代を過ごし、中でも4歳から始めたアイスホッケーはずっと継続し、一時はプロを目指した時もある程、スポーツをするということは私にとって非常に身近であり、人生そのものであった。また、作り話ではなく本当に小学生くらいの時から漠然とアイスホッケー選手の現役を引退したら、スポーツの発展の為に身を捧げたいとも考えていた。大きくなってもその思いはずっと心の片隅にあり、今思い返せば笑ってしまうほど考えが甘く、勘違いも甚だしいが、フランス語と英語がある程度喋れるようになってからは、同言語が公用語のIOCやFIFA等国際的なスポーツ業界で働けないかなぁとぼんやり夢のまた夢を描いていた。

最初の就職活動でも実は「日本と世界の架け橋となる」に「スポーツ」というキーワードを加えていた時期もあった。ただ当時そのような求人は皆無といってよいほどヒットしなかった為、一旦諦めたものの、スポーツで世界を繋げる仕事がしたいという夢は捨てきれずにいた。

諸事情が重なったこともあり、次の仕事が決まる前に電子部品の商社を退社。限られた時間の中で転職活動を始めた矢先、数々の転職エージェントの中から1社だけが日本サッカー協会の募集を紹介してくれた。もちろん迷わずすぐに応募した。滑り止めに考えていたその他企業からお祈りメールをもらうこともしばしばあった中、倍率が高く、難関と思われた大大大本命のJFAから内定通知をもらえたことに奇跡を感じると同時に、不思議な巡りあわせも感じている。

これまでサッカーを通じて友達の輪を広げ、そしてサッカーを「して」、「観て」楽しみ、大きな喜びと幸せを得てきた。

サッカーをきっかけとした繋がりが日本国内および海外へもより大きく広まるよう、また、サッカーを通じた喜びをもっと多くの人が分かち合うことができるよう、サッカーを「支えて」いく活動をしていきたい、そんな思いでサッカー業界に飛び込んだ。

JFAに入局後は国際部に配属になり、アジア各国からの代表キャンプアレンジや視察の受け入れ、ASEAN諸国のユース世代を招聘しての大会運営、各国とのパートナーシップ締結など様々な形の国際協力に携わってきた。

フランス語を生かしてフランス協会のみならず、アフリカ諸国と仕事をする機会もあった。

スポーツを通じてここまで世界幅広く繋がれるのも、ボール一つでどこででもできるサッカーだからではないだろうか。

まさに自分が憧れ、夢にまでみた仕事だった。これまでの自分の人生がJFAのビジョンともがっちり重なった。

JFAのビジョン
サッカーの普及:
サッカーの普及に努め、スポーツをより身近にすることで人々が幸せになれる環境を作り上げる。
サッカーの強化:
サッカーの強化に努め、日本代表が世界で活躍することで、人々に勇気と希望と感動を与える。
社会の発展への貢献:
常にフェアプレーの精神を持ち、国内の、さらには世界の人々との友好を深め、国際社会に貢献する。

JFAからAFCへ

縁もあり、2019年9月からアジアサッカー連盟(AFC)にて、各国加盟協会のガバナンス強化のサポートをメインで担当している。

まだまだ基本的な構造の部分から問題がある協会が多い中で、いかに協会を安定させ、その国のサッカーの発展を手助けできるかを毎日考え、各国協会とやりとりをしている。

こんなご時世だからこそ、サッカーを通じて少しでも友好的な繋がりを促し、勇気、希望、感動、喜びを分かちあいたいと強く願いながらサッカーを支え、発展させていきたい。

舞台をJFAからAFCに移しても、その思いは変わらない。