プロフィール
・1985年東京都足立区生まれ
・現在地:クアラルンプール(マレーシア)
・現職:事業統括・審判部(アジアサッカー連盟)
・海外在住歴:7年3ヶ月(アメリカ3年、マレーシア4年、バングラディッシュ3ヶ月)
▶︎阿部博一の「サッカー選手のキャリアを通じて考える、アスリートのセカンドキャリアの核心」連載を読みたい方ははこちらへ
元プロサッカー選手(V・ファーレン長崎)、国際関係学修士号(UCサンディエゴ)。三菱総合研究所勤務を経て、2016年よりFIFA傘下で、アジアの国・地域のサッカーを統括するアジアサッカー連盟に入局。
英検1級、プロジェクトマネジメントの国際資格PMP保有。趣味は筋トレ。
小学2年生の頃から、サッカー選手になる事を夢見てサッカーを始めました。なので、僕の学生時代の優先順位は常にサッカーでしたが、実は勉強もわりと好きで結構勉強もしていました。小学校の頃は、柏レイソルJrでプレーしましたが、力及ばず挫折をします。中学生の頃は、地元のクリアージュFCというチームでプレーし、高校では、東京工業大学附属高校でサッカーを続けました。最高成績は東京都ベスト8。高卒でのプロを目指して湘南ベルマーレなど練習参加をしますが、チームは決まらず、北海道にある道都大学にサッカー特待生として入学します。最高成績は、全国ベスト8。4年時にはキャプテンになりますが、前十字靭帯を開幕戦で断裂します。就活も試みますが、全く気持ちが乗らず速攻でやめました。手術後120%リハビリに取り組み、その後トライアウト、練習参加で数チームをめぐり、Vファーレン長崎に入団がきまります。4年時のインカレ予選でプレー出来なかった事は、今でも心残りです。
当時九州リーグのVファーレン長崎に入ります。J1から数えて「4部」にあたるリーグでしたが、選手の多くはJリーグ経験者。チームの半数はプロ契約の選手で、「プロサッカークラブ」としての機能は最低限そろっていました。僕自身はアマチュア契約で入団しました。給料はあってないようなものだったので、家庭教師をして生活費に当てていました。チームは僕が入団した翌年にJFL昇格を果たします。当時はJ3がなかったのでJFLは「3部」リーグです。JFLで4位以内に入ればJ2リーグ昇格なので、Jリーグまであと一歩のところです。入団1、2年目は、「とくかく試合に出る」、「プロ契約を勝ち取る」、この2つが目標で、チームへの貢献は思うようには出来ていなかったです。3年目にプロ契約を結びます。3年目は本当にサッカーと向き合うことが出来ました。天皇杯で横浜Fマリノスと試合をした時は本当に楽しかった。しかし、この年の最後に契約満了(クビ)となり、上を目指すサッカーはここで終わりになります。長崎でサッカーに向き合った時間、仲間は今でも大きな財産です。
僕の最初の海外留学は、大学1年生の時までさかのぼります。大学入学と共に、「サッカー以外で何か1つ武器を身に付けよう」と、勉強し始めたのが英語でした。そして大学1年の冬に、アメリカのサンディエゴに2か月間、語学留学します。サッカーも本気でやっていたのですが、インカレ予選で敗退したのが好機となり、大学教授を1人1人まわり、授業の出席を課題提出で免除してもらいました。初めて1人での海外。色々やらかしましたが、この時のホストファミリーが後に僕の大学院留学をサポートしてくれます。Vファーレン長崎に入団した後も、英語の勉強は続けました。25歳でサッカー選手をクビになりますが、その後の人生の指針を与えてくれたのは「英語」でした。アメリカの大学院留学が次の目標となり、大学時代に語学留学したサンディエゴにある、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の大学院で国際関係学の修士号を取ることにしました。入学に必要なTOEFLスコア、GREスコア、推薦書、入学願書、全て自分で準備しました。単純にお金がなかったからですが、これはすごく良い経験になりました。そして下宿先は、大学時代にお世話になったホストファミリーが無料で下宿させてくれました。留学する強い意志があれば、色々な人がサポートしてくれるし、必ず実現出来ると思います。
もともと、スポーツ界ではなく海外NGO、国連関係組織への就職を希望していたので、アメリカ留学時代にシアトルにあるクリスチャンキャンプで清掃ボランティアを2ヶ月、バングラディッシュのダッカにあるグラミン銀行でインターンシップを3ヶ月実施した経験があります。バングラディッシュでは、ぼろアパートにインド人、ドイツ人と一緒に住み、現地の生活を堪能しました。アメリカの大学院を卒業した後は、三菱総合研究所に就職し、スポーツ・教育関係の仕事をしていました。この時、Jリーグにも営業をしに行っていたのですが、何故かJリーグが主催するJリーグヒューマンキャピタル(現:SHCスポーツビジネスマスターコース)に参加する事になります。結果的にはこの決断が、現在のAFCでの仕事に繋がります。プログラム修了後少し経ってから、AFC審判部の元ダイレクターが、アジア規模で審判アカデミーを開くプロジェクトの担当者を探していると連絡を貰います。世界を舞台に仕事をするのは、自分のやりたかった事なので、転職を決意します。AFCに転職当初は、1人マネージャーで粛々とアカデミー開校準備をしていましたが、今では11名のチームで、審判事業全体を統括しています。
好きな言葉
誰もお前にサッカーしてくれって頼んでいない。
お前が好きでやっている。だから結果は全てお前の責任。
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