プロフィール

・1983年東京都生まれ

・現在地:東京(日本)

・現職:アドバタイザー・パートナーシップス・ディレクター(ディスカバリー)

・海外在住歴:2年(1年アイルランド、1年イギリス)

主な経歴

成蹊大学卒業後、JFLの横河武蔵野FC(現・東京武蔵野シティFC)でサッカーの世界へ。筑波大学大学院、リバプール大学マネジメントスクールで学び、その後横浜F・マリノスに入社。法人事業部に加え、CFG(シティ・フットボール・グループ)コーディネーション室やグローバル戦略事業部で、CFGとの折衝やクラブのアジア戦略を担当した。現在はディスカバリー・ジャパンにて、欧州のオリンピック放映権を持つユーロスポーツなどのスポーツ部門にて、グローバル広告を担当する。

日本在住である私は、本サイトに適任ではないかもしれません。ただ、発起人である辻さんのお話を伺い、このサイトの本質は『スポーツ業界でグローバルに働きたい人に向けた情報支援』と解釈しました。それであれば、必ずしも海外在住でなくてもグローバルな環境で働く一例を紹介することで、もしかしたら読者にとってプラスの情報になるのかもしれないと願い、僭越ながら自己紹介をします。

サッカーに明け暮れた学生時代

私は、学生時代はどこにでもいるサッカー少年でしたが、自由と自立した思考を尊重してくれる家庭で育ったこともあり、あまりに規律を求める高校の部活動に疑問を抱き、転校までして高校生活を4年間やるような人間でした。県を一つまたぎ転校しましたが、同じカテゴリーのリーグに所属する高校同士、古巣と対戦することもありました。当時は型破りだったかもしれません。高校では力及ばずプロにはなれず、ただ大好きなサッカーにどうやったら今後も関われるのかと自問自答しながら様々な角度からサッカーに関わるようにしてきました。競技をフットサルに転向、別ではコーチをやるなどしていました。そんなとき、大学4年時に今後の方向性を決める出来事がありました。大学の仲間とNPO法人を設立し、イタリアの強豪ASローマのフットサルチームを日本に招待して『ジャパン・ツアー』を行うことになったのです。これがスポーツビジネスとの出会いであり、今の軸となっています。

ASローマ フットサルクラブのジャパン・ツアー
東京武蔵野シティFC時代~リバプール大学院

社会人になると、大学時代にお世話になった恩師でもある教授に薦められて、横河武蔵野FC(現・東京武蔵野シティFC)の面接を受けることになり、フロントとして働き始めました。経験がないにも関わらず私を雇ってくれたのが、当時横河武蔵野FCのGMで現在FC東京の強化部の古矢氏で、今でも感謝してもしきれません。当時トップチームの運営には4人しかおらず、何から何まで自分たちでやらないといけない環境のおかげで、サッカークラブの機能を全て学ぶことができました。広報、営業、運営、ウェブサイトの更新やイベントの企画・運営、何でもやりました。若いときに小さなチームにいるメリットはここにあるのではないかと思います。
横河武蔵野FCで働きながらもう一つやってきたことがあります。それは夜間開校の筑波大学の社会人大学院でスポーツマネジメントを学び、修士号を取得したことです。ここでの経験は今後の大きな糧となりました。社会人大学院ということもあり、周りは経験豊富な先輩方ばかり。有名な元選手や会社役員の方々もいて、最も若かった私は本当にかわいがって頂きました。社会人大学院の利点は、このように世代を超えた交流があることです。
横河武蔵野FCと社会人大学院を修了した後も、学生のときに知ったリバプール大学・サッカー産業コースへの留学は憧れであり、目標でした。ここをステップにJ1クラブで働きたい、それが当時の想いでした。ただ当時の自分には全く英語力がなく、ここで本気で英語を学ぼうとようやく決心します。全く英語力がない自分には、IELTSのスコアを取ることは気が遠くなるような日々でした…。帰国子女でもない、留学経験もない、そんな自分がすぐにイギリスの大学院に本当に行けるのか、当時は不安ばかりが募っていました。とにかく英語力を上げないといけない、そんな思いからアイルランドに1年間留学を決心しました。この語学留学を得て、英語のスコアは上がったものの、それでもまだ大学院レベルの英語力には達していなかったのに加え、自己資金もほとんどなくなり、帰国後2年間IT企業で働きました。必死に資金を貯め、終業後と土日のほとんどの時間を英語の勉強に割き、ようやくスコアを得ることができました。出願書類を提出、無事合格をもらえ、ようやく念願のリバプール大学への留学が実現しました。当時29歳でした。

リバプール大学修了後は横浜F・マリノスへ

リバプール大学での1年間は充実したものでした。自分たちの代は世界14カ国から34名のクラスメイトが集まり、全員が情熱を持ち、今後のスポーツビジネス界での就職を狙う人たちでした。授業はもちろん、課外活動、研修、そしてパブで集まり話し合う一瞬一瞬が学びの場で、今はそのクラスメイトが様々なところでスポーツビジネスに携わっています。クラブや協会や代理人、スポーツ関連企業、さらには起業する仲間もいました。ここでの経験と、クラスメイトとメール一本で繋がる『ネットワーク』は、お金では買えない私の財産となっています。
コース修了後J1クラブで働くために、数ヶ月前から仕込みを行っていました。普通の就職サイトやエージェンシーがJクラブの求人を扱うことは滅多にありません。そのため通常の就職活動では難しいと考え、クラブ毎にそれぞれ独自の提案書を作成し、クラブに直接アプローチする方法を取りました。その結果として、アプローチした9クラブ中4クラブからオファーを頂き、その中でもCFGと提携したばかりで且つ憧れのクラブでもあった横浜F・マリノスへの入社を決めました。

クラスメイトとの集合写真とバーンリーFC『ターフ・ムーア』での研修
ディスカバリーにてオリンピックなどグローバルスポーツに携わる現在

横浜F・マリノスでの日々も充実そのものでした。Jリーグを代表するクラブで、営業に日々奔走し、CFGとの折衝やアジア戦略を担当してきました。週末をまたいでアジア各国へ出張に行くなど忙しい毎日を過ごしましたが、チーム内の改革が進む中、ビジネスサイドも大きな変化が生まれ、その渦の中で仕事をできたことは何よりも代えがたい経験でした。まだこちらの体制が整う前に、次々とCFGの幹部や各部署の責任者が来日した際は、マリノス側の立場としてCFGとの間に立ち調整をしましたが、文化もやり方も違う両者の主張に挟まれる難しさもありました。ただ、クラブのために様々なプロジェクトに携われたこと、そして何よりマリノスのスタッフはクラブを愛する者しかおらず、この恵まれた環境で働けたことは幸運としか言いようがありません。
充実した日々を送っていましたが、5年目に一本のスカウトメールを頂きました。悩みましたが、領域を広げ、立場を上げることでもっと成長できるのではないか、その想いから『移籍』することを決心しました。現在はディスカバリーにて、国内企業のグローバル広告に対して、欧州のオリンピック放映権やその他人気スポーツの放映権、大会そのものの運営などを行うイベントなどの『スポーツ領域』を担当しています。ディスカバリーチャンネルで有名なディスカバリーも、今は欧州全域のオリンピック放映権を抱え、モータースポーツの大会運営、ゴルフの米国PGA/LPGAツアーの放映権、サイクリング専門チャンネルであるGCNなど、様々なスポーツのアセットを抱えています。グローバルな環境で、私の上司や同僚も世界中のオフィスに広がります。日本在住ではありますが、常に時差を意識して働くことは、日本にいてもできるかと思います。どこにいるかということよりも、『何を』『どの立場』で仕事に携わるか、それが私の中でのキャリアに対する考え方となっています。

後輩たちへのアドバイス

アドバイスできるほど立派な立場ではありません。一つの例として捉えてもらえればと思いますが、英語が全くできなかった私が、さらには学部生のときは経済的に余裕がなく留学なんて夢だった私が、四苦八苦して英語を習得して、自分自身で資金を貯め、大学院に留学することができ、今はグローバル企業でスポーツ部門を担当しています。当時からすると不思議なものです。帰国子女や経済的に余裕がある家庭を羨ましく思っていたときもありました。ただ、自身の経験から自分の好きなこと純粋に追い求め、それを継続し続ければ、目標は叶うものだと常に自分自身に対しても言い聞かせています。日本人は真面目で計画をきちんと立てて動く国民性だと思いますので、将来を『楽観視』するぐらいの心構えがもしかしたらちょうど良いのではないかと思っています。

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Twitter (@akiomasamoto)

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