プロフィール

・1981年神奈川県生まれ
・現在地:東京(日本)
・現職:公益社団法人日本プロサッカーリーグ 海外事業部長
・海外在住歴:7年(タイ2年、アメリカ4年、アイルランド6ヶ月、ケニア6ヶ月)

Jリーグ

最初に、今のJリーグでの仕事について。
スポーツ界、Jリーグに転職して10年以上経ちました。大変ありがたいことに、転職当初からの希望通り、ずっと何らかの形で国際業務に携わっています。最初は競技運営部でJリーグの日程作成やAFCチャンピオンズリーグ・FIFAクラブワールドカップの運営などを経験。その後、事業部というパートナー協賛に関する業務に関わりながら、2012年よりアジア戦略プロジェクトの立ち上げから関わり、現在も海外事業全般を担う部署にいます。
2012年に立ち上がったアジア戦略は、「アジアと共に成長する」をコンセプトに、特にアセアン諸国との関係を深め、様々な交流、ビジネスマッチング、シティープロモーションなどを行っています。特に、2014年のレコンビン(ベトナム)の北海道コンサドーレ札幌への移籍を皮切りに、アジア各国のスター選手がJリーグでプレーする環境を目指しています。サッカー熱高いアセアン各国は、自国のスター選手がJリーグで活躍することで両国間の更なる発展に貢献できると考えており、2020シーズンには、チャナティップ(札幌)など、現役タイ代表4選手がJ1に、またマレーシア代表選手がJ2に所属するなど、毎年その数が増えていっています。
 Jリーグには、イニエスタを始めとした世界レベルの選手に加えて、アジア各国のスター選手が集まり始めています。海外での放映もさらに拡大していき、日本をしのぐアジア各国のサッカー熱と投資を呼び込み、リーグ自体をプラットフォームとして拡大させ、自治体、企業、ファン・サポーターなどサッカーに関わるステークホルダーの海外との交流、ビジネスに活用できるような存在になりたいと思っています。

タイリーグとの提携から始まったアジア戦略。今では家族ぐるみの付き合いもあるタイリーグ副CEOと。
第二の故郷:タイ

自分の人生に大きく影響したのは、17歳でのタイへの引っ越しでした。17歳といえば、日本だけでなく、海外でも大学を控えた大事な年。海外の日本人学校は中学校までです。英語が当然話せない中で、タイではインターナショナルスクールしか選択肢がない。父親の転勤の中で、日本に残る選択肢もあったのですが、結局家族でタイに行きます。
案の定、英語が話せない私は、バンコクにあるスクールからは門前払いを受けます。仕方なく、バンコクから片道3時間、Banchangという町にあるスクールに通う事になりました。試験もなく、面接一発合格。その面接もほぼ父親が受け答えしただけ。なぜ入学出来たかというと、初めての日本人で、かつ、たぶんしっかり学費払ったからだと思います(笑)。
バンコクから毎日通えないので、日曜夜にバンコクからスクール近くの寮に入り、金曜日に授業が終わったらローカルバスでバンコクまで自力で返る。寮の食事は、なんと近くの屋台で買ってきたものを移し替えるだけ。激辛です。最初はタイ料理をうまく食べれない、英語話せない、友達いない、「ないない」尽くしで、1週間で5kg痩せました。日本に帰る選択肢もまだあったのですが、一度日本を出たのに、今更戻れないな、、、と思っていました。ある意味崖っぷちで、学校での生活に必死でついていく日々が続きました。英語もタイ語も話せない17歳で、そこから這い上がれた経験は、その後、どんな環境でもなんとかできる、なせば成る、という精神が身に着いたと思います。
言語は、周りに日本人がいないので、英語かタイ語を話すしかありません。最初は大変でしたが、日に日になれ、1か月で聞き取れるようになり、3か月経つとだいたい伝えたい事も言えるようになりました。それも、サッカーのお陰でした。
当時は、98年WCが終わり、中田英寿さんがペルージャに移籍。タイでは、アジアの同じ仲間として、中田さんの新しいチャレンジを非常に称賛していました。そんな年に、私はスクールで、ボールを蹴り始めます。日本でも高校ではサッカー部所属で体は動くので、スクール対抗のサッカー大会で活躍し、「ナカータ」と呼ばれ、ちょっとした有名人になれました。「ナカータ」と茶化されたり、強くボールを蹴る方法、リフティングの仕方などを身振り手振り交えて仲間に教える中で、英語もコミュニケーションもできるようになりました。
新しい環境に飛び込んで、言葉が満足に話せなくても、サッカーで友達ができ、サッカーを通じて英語を身に着ける事ができた。これがスポーツの本質的な価値だなと感じた実体験です。タイには、今でも仕事で頻繁にいきますが、空いた時間で、この時の友人たちとたまに会えるのが喜びです。
実は、そのBanchangで通ったスクールは、日本で卒業資格を認められない学校でした。そこで、1年後には一度門前払いを受けたバンコクのスクールに転校することができ、卒業します。進学という意味でも、本当に崖っぷちだったのを後から知りました。その後、大学は日本に帰る予定だったのですが、受けた学校全部落ちてしまいました。たまたま「ボストン」という学生の街に憧れを感じて願書を出していた大学だけ受かり、流れでそこに行きます。ここでも、いきなり一人でボストン。知り合いはいません。でも、やっぱり、友達はサッカー通じてできます。学内サッカー、ボストン在住日本人サッカーチームに入り、少しずつ友達も増えていきました。
やっぱり、言葉も文化も新しい土地に行った際に、サッカーがその地域、人との結びつきを生んでくれました。実体験をもって、サッカー、スポーツの価値を感じていたのだと思います。

スポーツ界転職のきっかけ

最初の就職は独立行政法人国際協力機構(JICA)でした。海外を飛び回りたい、苦しんでいる人の助けに少しでもなりたいと思い、採用頂きました。幸運なことに、入社初年度から、故緒方貞子理事長の命により、半年間ケニアに滞在します。いろいろなプロジェクトに関わり、ケニア各地を訪れるなど、素晴らしい経験をさせていただたいたのですが、一番の思い出はやっぱりサッカー。週末、市内の空地に集まり、ケニア人のみならず、ケニアに出稼ぎに来ていたアフリカ中の国の人とサッカーをしていました。みんなプレーしたいので、11vs11ではなく15vs15とか、審判はいないのでファウルの判定で議論になったり、PKになると誰が蹴るかを決めるか5,6分議論がはじまり、議論が収まらないと、別の人が横からいきなり蹴ってしまう。。。そんな無法地帯サッカーでしたが、仕事以外でアフリカの人の考え方や暮らしに触れた貴重な経験でした。
ケニアから帰国しても、やはりスポーツへの想いが忘れられなく、当時、アメリカ大学在学時に同じキャンパスで過ごした中村武彦さんが、MLSに日本人として初めて就職し、活躍されます。その活躍に刺激を受け、スポーツへの想いがどんどん膨らみ、多摩大学のスポーツビジネスに通います。ここでJリーグの事を深く学び、また百年構想「スポーツでもっと幸せな国へ」という素晴らしい理念を知ります。この構想は、環境が厳しい途上国でも受け入れてもらえるのではないか、日本発の発想で海外で勝負したい、と思い始めます。
実は、JICAの中でスポーツ事業の立ち上げを目指したのですが、当時は東京オリンピックもまだ話もなく、スポーツを通じた国際協力はなかなか理解されませんでした。スポーツ界への転職と言っても、まったく知り合いもいませんし、海外と接点ありそうな職は簡単には見つけられません。そんなある日、日本経済新聞にJリーグの公募があり、締め切り前日でたまたま見つけたので、慌てて申し込みをし、運よく採用頂きました。あとで聞いたら、Jリーグとしては初めての公募で、2回目は昨年末に実施したくらい、貴重なタイミングでした。

ケニア滞在の毎週の楽しみだった草サッカー。帰国前最後の日にやっと撮れた集合写真。
英語を身に着けるために

言語は大事です。時間もお金もかけずに効率的に習得する方法として、日本人がいない環境に飛び込む事をおすすめします。あとは、サッカーがなんとかしてくれる(笑)。別にサッカーでなくても、他のスポーツ、音楽、芸術など、何か文化的な、言葉を必要としない事ができるとなんとでもなると思います。

好きな言葉

なせばなる

計画された偶然