プロフィール

・1985年生まれ
・現在地:クアラルンプール(マレーシア)
・現職:アジアサッカー連盟
・海外在住歴:イギリス、マレーシア

まず初めに断っておかないといけないことがある。僕は今回の企画の依頼を受けたとき、正直言うと戸惑いが頭を過った。この企画を楽しみに読んで下さっている読者の方々の期待を裏切ってしまうのではないか、レピュテーションを崩してしまうのではないか、心配だった。なぜなら僕は今までの諸先輩方とは違って、サッカー界で働くことに対して昔から強い志を抱いていたわけでもなければ、部活はおろかサッカーを本気でプレーしたこともない(サッカー観戦は人並みに友人と酒を飲みながら学生が多く集まる高田馬場の地下一階にあるHUBでワイワイ騒ぎながら観ていたが、スタジアムに足を運んだことはこの世界に入るまで一度たりともなかった)。

そうなると就職の際サッカー界のコネクションなど皆無であり、ましてやスポーツビジネス系の大学/院も卒業していなければ、FIFAマスターの存在など当時就職活動していた僕には知る由もなかった。この企画に参加していいものか否か、自分の人生を振り返りながら考えた。今までの諸先輩方は極めて優秀なエリート気質なのに対し、凡庸な人生を送っている僕でもこの世界に就職できたというどちらかというと大衆的なエピソードとして精いっぱいありのままの事実をこの企画を介して、読者に対して失礼のないよう、赤裸々に綴りたい。ちなみに、出だしからかなりネガティブな内容になっているが気にしないでほしい。最後までネガティブだから。。。

まず僕の自己紹介をする。名前は内田慎太郎。34歳。幼少期から高校まで断続的だが計9年間を英国で過ごし、早稲田大学国際教養学部を卒業。2008年に某アパレルメーカーに就職後、2012年に公益財団法人日本サッカー協会(JFA)に入局。2018年よりアジアサッカー連盟(AFC)。なのでこの記事の構成としては1)JFAに就職するまでと、2)AFCに所属するまでの2つに分けたいと思う。

イギリスでの少年時代を経て、「迷子な帰国子女」として過ごした日本の高校時代

前述の通り、僕は子供のころ、父の仕事の都合で英国に住んでいた。5-9歳までと12-17歳までの計9年間だ。よって生粋の日本人か帰国子女かと問われたら、どちらかというと帰国子女とカテゴライズされた部類に入るのだろう。しかしその帰国子女の中でもいくつかに分かれる。

1)1年半以上5年未満を海外で生活し、日本人としてのアイデンティティを維持しながらも海外での経験を自分の個性としてしっかりプラス吸収している「優秀な帰国子女」。(ちなみに帰国子女とは、海外に継続して1年半以上住んでいた子供を指す)

2)人生の大半を海外で過ごし英語もネイティブ級に話せる、海外で暮らすにも全く問題のない「帰国子女の完全体」。

3)日本と海外を半分ずつ過ごし完全に自己のアイデンティティを失った「迷子な帰国子女」。いわゆる「サードカルチャーキッズ」。(自分の国籍の文化を第一文化、生活している国の文化を第二文化とした場合、そのどちらでもないはざまの文化、つまり第三文化の中で人格形成に影響を及ぼす時期や思春期を直期に渡って過ごした子供)

僕は言うまでもなく3)の「迷子な帰国子女」。日本に帰国後、英語は周りよりはそれなりに話せた、それは当然。

しかし、今まで自分は日本人だと思って海外で過ごしてきたのに、日本ならハンディキャップ無しに本領発揮できると思っていたのに、日本に帰国して日本人と一緒に勉強できるのが楽しみだったのに、何故か周りのクラスメイトと波長が合わない。日本の学校に馴染めない。そんな逆カルチャーショックを受けた高校2年の夏in木更津。

とはいえそれなりに努力して行きたい大学に進学でき、いよいよ就職についても考え出した。

大学でのオーストラリア留学経験
「日本人だというアイデンティティを感じられる仕事」として選んだ、アパレルメーカーへの就職

海外で働くか日本で働くか、日本で働く場合でも日系か外資か。とにかく英語という自分の強み(ネイティブではないので日本国内に限ってだが)を生かした仕事がしたい、そうなると海外にビジネス展開をしているグローバル企業で働きたい、などなどありきたりな考えは人並みにある一方、絶対に譲れない最も重要視すべきこと/自分が求めていることは明確だった。

「自分は日本人だというアイデンティティを感じられる仕事。」

それは13年後AFCで働いている今でも変わらない。日本というアイデンティティを世界に広められる仕事。世のため人のためではなく、日本のために役立っていると思える仕事。自分は日本人だと常に実感できる仕事。

これが僕にとって働くことに対するモチベーションの源であり原動力になっている。言い換えてしまうとこれは「迷子な帰国子女」が抱えるコンプレックスでもあり、これを実感できなくなるとさらに迷子になり、アイデンティティ・クライシスに陥る。

結果、選んだのは某アパレルメーカー。

日本の伝統美を追求しながら、西洋との調和で新しい価値を創造し、世界に挑戦しようとしている会社。日本の伝統的な染色技術(藍染など)や織生地(麻など)を使用しながら、ヨーロッパの最新トレンドをデザインに取り入れた洋服を作り世界に挑戦している。まさに日本のアイデンティティを洋服を介して世界に発信している会社であり、僕の求めていることと合致した。

入社してから店頭サポートや百貨店営業、生産管理での経験を経て、念願の海外事業部へ異動し、当時海外出店していた香港と台湾での事業を担当することができた。世界的有名な日本人デザイナーは居たものの、世界的に有名な日本のアパレルブランドというのは、ユニクロや無印などのファストファッションを除くと、あるようでなかった。

さらにこの服には日本の伝統美・伝統技術が凝縮されており日本の文化を存分に感じとれる服だから、これを着て街中を歩くのはまさに僕にとっては日本国旗を羽織って街を歩いてくれているくらいうれしかった。この会社で働いていた4年間はとてもやりがいを感じたし、充実していた。

台湾など海外での新店舗立ち上げに携わった、前職でのワンショット
アパレル業界からスポーツ業界へ、日本サッカー協会への入局

そして2012年、ファストファッションの台頭やリーマンショック後の不景気により消費者がさらに節約志向となり、アパレル業界そのものがより厳しくなったこともあり、転職を決断した。

この時も自分が仕事で求めているものは変わらなかった。日本を世界に広められる仕事。日本のために役立っていると思える仕事。自分は日本人だと常に実感できる仕事。それが満たされていれば業界は絞っていなかった。大手転職サイトに登録して色々な求人を紹介してもらった。その中の一つがJFAだった。

スポーツ業界というのは正直、考えてなかったので自分とスポーツの関係性について振り返った。

幼少時代、突然異国の地に行き、英語が全く話せない状態で現地校に放り込まれる。授業にもついていけない、友達もできない日々が続く。そんな状況を打開してくれたのはラグビーというスポーツだった。

スポーツを通じて、言葉を介することなく相手とコミュニケーションができたことの感動を鮮明に覚えている。これを機に友達も増え英語も次第に話せるようになり、海外生活が楽しくなっていった。

この感動があって僕の中ではスポーツに対してとても特別な感情があった。それがJFAへの就職に直結していたかというとそうでもないが、少なくともスポーツ業界へ転職する動機の一つにはなっている。

JFAに入って日の丸を背負う日本代表が世界の強豪の仲間入り出来るようにサポートする仕事というのは、日本のアイデンティティを世界に広めるという自分の野望と合致していた。

面接を終えた後、面接官から「あ、そうだ、今夜日本代表の試合があるから時間あれば観に来なよ」と言われ、ジャケットの内ポケットからさらっと一枚のチケットを渡された。チケット見てみるとそこには「SAMURAI BLUE」「国際親善試合」「VIPチケット」という文字が印字されていた。惚れてしまいそうだった。

スタジアムに着くとそこには約5万人の観衆がみんな日本代表ユニフォームを着てスタンド全体をネイビーブルーで埋め尽くしている。試合中は5万人が一体となって熱唱し、ゴールを決めると感極まってみな抱き合い歓喜を分かち合う。

今までに体験したことも想像したこともない雰囲気に圧倒された。そしてこのイベントはJFAが主催して運営を行っているのだ。僕はこの日、迷うことなくJFAに転職することを決心した。
 
僕がJFAに入局したのは2012年。JFAは新卒採用を行ってなく、即戦力となる中途採用しか扱っていない。
 
サッカー経験者でもなく、スポーツ業界からの転職でもない僕はいったいどうなるのだろう。不安しかなかった。しかし、実際周りの経歴を聞いてみると前職がスポーツ業界だったという人の方がむしろマイノリティで、僕は全くレアケースでも何でもなかった。
 
JFA職員は総合・専門商社、金融、メーカー、サービス、通信、製造、様々な業界から転職している。打ち込んでいたスポーツは何かと聞くと、野球、ラグビー、ホッケー、ラクロス、アメフト、水泳など様々。よって、他業界からの転職だから…という言い訳は使えないことが初日に分かった。。。

JFAで配属となった競技運営部の具体的な業務


さて、僕が配属となった競技運営部とはどのような部署か。読んで字の如く、サッカーの試合を運営する部隊。
 
観客にとってサッカーの試合は、必ず予定のスタジアムで、予定通りの時刻に開始されるものと決まっている。そしてひとたびゲームが始まれば、当然のごとくチームとともに歓喜と焦燥を共有し、楽しい一時を過ごす。
 
しかし試合を運営する側には、感動と興奮に満ちた時間を演出するための大きな責任がある。試合を観ている時間はないし、感動している場合はない。超有名選手が目の前を歩いても、大切な試合で決勝点が入っても動じない。予定されていた試合を予定通り円滑に運営するのが、競技運営部の仕事だ。
 
部の中でも、国内グループと国際グループに分かれており、国内グループは天皇杯・皇后杯・高円宮杯などを運営しており、国際グループはサムライブルー始め、なでしこジャパン、オリンピック代表、フットサル代表、ビーチサッカー代表、そしてアンダーカテゴリーの代表の試合を運営している。
 
僕が配属となったのは、後者の国際グループ。キリンチャレンジカップなどの親善試合の運営や、W杯予選などの公式戦の試合運営をしている部署。
 
僕が入局して初めて担当した試合は忘れもしない、札幌でのベネズエラ戦。右も左も分からないまま試合を担当したのだが、まずその運営担当者の守備範囲が広すぎることに驚いた。
 
サッカーの競技面に関わる内容だけでなく、スタジアム全体の警備体制(導線や警備員配置まで)や救急消防警察の対応、売店関係の出店管理、対戦国のケア(ホテル調整・練習場手配)、場内演出や場内装飾、その全てを綿密に企画して試合の約1年前から準備する。
 
試合当日になるとさらにVIP・メディア・TV・日本代表・審判・チケットなどの状況も把握しながら試合全体を円滑に進行させなければならない。取り扱わなければならない情報量の多さに圧倒されながらも、札幌での試合を終えることが出来た。
 
しかし、最も驚いたのが試合を終えた翌日、ネットニュースはもちろん、スポーツ新聞各紙の一面やテレビ各局のスポーツ番組で、自分が担当していた試合が報道・掲載されていたこと。そこで改めて自分がしている仕事の影響力を知った。
 
日本代表が活躍して世界に名を轟かせてもらうことが、前章で説明した僕が仕事をする上で追い求めているものであり、それは前職で感じていた達成感を遥かに超えていた。
 
もう僕の中での、仕事に対するモチベーションの向上は止まらない。仕事が楽しくて仕方がなかった。今まで、長い海外生活を幼少期に過ごして迷子になっていた分、自分は日本人だというアイデンティティを感じられる快感はすさまじく、中毒性の高いものになっていた。
 
次第にAFCが絡む試合も担当することになる。FIFAワールドカップ予選やAFCチャンピオンズリーグ(ACL)などがAFCとの初めての絡みだった。

新たな転機、アジアサッカー連盟への転職

そして、2018年、気づいたらAFCに勤めていた。
 
配属はコンペティション部門。JFAと同じ、各種大会を運営する部隊だ。
 
AFCはマレーシアのクアラルンプールに拠点を置いているのだが、職員は日本韓国中国はじめ、タイやイラン、ウズベキスタンなどアジア各国から集まっている。ここでの働き方は、まったく日本企業と違うのだ。
 
自分と異なる文化や習慣、宗教の中で人格形成された人たちと共に働く大変さや、日本での常識が全く通用せず自分の進めたい方向になかなか仕事が進まないストレスなど、うまくいかないことが沢山ある。
 
各国の人たちと働いている中でつくづく感じるのは、実行力、クリエイティブシンキング、順応力が非常に高いこと。そして、問題が起きた時のトラブルシューティング能力はピカイチだと言える。
 
日本人が評価されるのは、緻密な作業や計画性の高さ、その計画通りに物事を進める遂行能力や、論理的思考、ネガティブチェックなど。さすが戦後製造業で急成長してきた国だけあって、日本人の魂にはこれらの能力が本能的に植え付けられているのだと思う。(幼少期海外で育った迷子の帰国子女が言うのもなんだが…)
 
ここまで違うと、もはや業界関係なく、海外で色んな人と働けるこの環境だけで十分、自分が日本人だということを実感しながら働くことが出来ている。大げさに言うと、自分が日本の顔なのだと意識しながら、日々楽しく、誇りをもって働いている。なので僕と同じような境遇の迷子の方々で就職に迷っている方が居るのなら、サッカーに限らずどの業界でもいいので、このような環境で働ける仕事をお勧めしたい。
 
日本人ではない人たちに囲まれることで、自分が日本人だということをより実感することができるから。
 
そしてもう一つ、情熱を注ぎ込める仕事や好きになれる仕事、夢や目標などは、就職してからでも十分に見つけられるというのも伝えたい。前述の通り、僕はサッカー経験がなく、サッカー界への強い就職意欲は直前までなかったし、目標もなかった。でも今は、同じ環境にいる仲間と同じくらい、サッカーに情熱をもって仕事に取り組めていると自信をもって言える。
 
僕が社会人として定年退職するのはちょうど2050年になる。
 
それまでに日本代表にはぜひ、世界を制してほしいと心底願う。
 
それが僕にとって働くことの意義の、最高到達点でもあるから。

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